中道

“中道”

ブッタは、私たちが「欲におぼれる道」と「苦行を行く道」という二つの両極端な道のどちらを歩むことも、よしとはしませんでした。そうではなく、ブッタは私たちに「ただ快楽に気づきなさい」と説いたのです。怒り、不安、不満は修行者の道ではなく、俗世の人間の道です。心の静まった人は、左脇に執着を捨て、右脇に恐れや嫌悪を捨て、正しい実践の道である中道を歩むのです。

実践の道を歩む人は、中道に従わなくてはなりません。それは、「私は、快楽にも苦痛にも興味を持ちません。私は、それらを捨て去ります。」ということです。もちろん、それは最初は難しいことです。言うならば、それはあたかも道の両側から蹴り飛ばされるようなものです。あなたは、牛の首につける鈴や振り子のように、左右に振れてしまうかもしれません。
ブッタが初転法論を説いたとき、これら二つの極端さについて語られました。なぜなら、ここに私たちの執着の源があるからです。幸福への欲望が片方から蹴り飛ばし、苦しみや不満がもう一方から蹴り飛ばす。この二つは、いつも私たちを取り囲んでいるものです。ですが、私たちが中道を歩むとき、あなたはそれらの両方を捨て去るのです。

分かりませんか?もし、この両極端の道を歩むのなら、あなたはわずかな忍耐も自制心もなく、怒ったときは喧嘩をし、魅力を感じたものがあればそれをつかみ取ることでしょう。皆さんが、どれほどこうした生き方に慣れ親しんでいるのか、考えてみてください。もしあなたが何かを好きになったら、好きと思った瞬間に、それを追い求めるでしょう。しかしそれは、あなたを苦しみへと導くのです。欲望というものは、本当に狡猾です。この欲望という心は、次にあなたをどこへ誘うのでしょうか?

ブッタは、私たちにその極端さを捨てさることを説きます。これこそ正しい実践の道であり、生死から脱する道なのです。この道には、快楽も苦痛も、善も悪もありません。ああ、なんと多くの人々が快楽を得るための望みでいっぱいになり、いつも中道を避け、悟りへの道、真実を探求する者の道を失っていることでしょうか?生と死、幸福と苦しみ、善と悪とに執着し、中道を歩まないものは賢者にはなれず、解脱を得ることはできません。サマタ(静寂)と純粋な気づきという私たちの実践はまっすぐなものであり、高揚と悲しみの双方を落ち着かせてくれるものなのです。もし、自分の心がそのようになっているのであれば、あなたはもはや、他人に教えを請うことはなくなるのです。

 あなたの心から執着がなくなったとき、それが自然な状態にとどまっているということが分かるでしょう。私たちが、さまざまな思念や感覚によってその自然な状態から離れるとき、思考の構築作用が発生し、幻想が作り出されます。このプロセスを見抜くことを学んでください。良いことも悪いことも、あなたの心の中にのみ生じるのです。もしあなたが人生を通じて自分の観察を実践し続けるのなら、必ずや退屈などしないであろうことを保証します。

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