一日の意味

<一日の意味>

 
”今日一日の予定がその日のうちに果たせなかったら、「自分の人生もまたかくの如し」。 
 
 今日という日は、一日に限られているのです。人間の一生もまた同様です。そこでよほど早くからその覚悟をして、少しの時間もこれを生かす工夫をしていないと、最後になって慌て出すことになります。死というものを、一生にただ一度だけのものと考えてはいけないと思うのです。それというのも実は死は小刻みに、日々刻々と、我々に迫りつつあるからです。
 
 実際一日が一生の縮図です。我々に一日という日が与えられ、そこに昼と夜があるということは、二度と繰り返すことのないこの人生の流れの中にある我々を憐れんで、神がその縮図を、誰にで良く分かるように、示されつつあるものといっていいでしょう。
 
 ですからまた、我々が夜寝るということは、つまり、日々人生の終わりを経験しつつあるわけです。一日の終わりがるということは、実は日々”こででもか、これでもか。”と死の覚悟が促されているわけです。しかるに凡人の悲しさには、お互いにそうとも気付かないで、一生をうかうかと過ごしておいて、さて人生の晩年に至って、いかに嘆き悲しんでみたところで、今更どうしようもないのです。
 
”行って余力在らば以て文を学ぶ”
 
 まずは自分の仕事を果たす。そしてその上でなおゆとりがあるのであったら、そこで初めて本を読む。これ実に人生の至楽というものでしょう。”行って余力があらば”と言っているのは、自分のなすべき仕事をほったらかしにしておいて、だた本さえ読んでいれば、それで勉強や学問かのように誤解してしまう人が、世間には少なくないようですから、そこで実行という事を力説するために”行って余力在らば”と申されたわけで、実際に仕事を早く仕上げて、そして十分の余力を生み出して、大いに読書に努むべきでしょう。
 
 人間は読書によって物事の道理を知らなと真の力は出にくいものだからです。そもそも道理というものは、ひとりその事のみではなく、外の事柄にも通じるものです。たとえば階段を登るときには、さらさらと最後まで軽やかに登るということのうちに、やがてまた人生の逆境に処する道も含まれている、というようなことをいうわけです。
 
 そこで、かような道理を心得ている場合と、ただ階段というものは、なるべくさらさら登るものだ、と言われただけでは、同じくそれを実行するにも、その力の入れ方に、大きな開きが出てくるわけです。さらにまた、道理を知った上での実行というものは、その実行によって会得した趣を、他の人々に分け伝えることもできるわけです。ところが道理知らずの実行は、その収穫はただ自分一身の上にとどまるのです。
 
 かような道理を知るということは、非常に大切なことであります。またその方法の一つとしての読書も、なかなか重大な意味を持つわけです。しかしそれは実行を予測して初めて意味のあることです。すなわち実行という土台の上に立って、初めて読書もその効果を生ずるわけです。
 
 ですからやはり実行が本であって、学問というものは、ただ実行という土台の上に立って、初めてその意義を持つわけで、これ孔子が”行って余力あらば以て文を学ぶ”と言われたゆえんでしょう。 
 
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 実際今日という一日を、誠に充実して生きるところに、やがてまた一生そのものを充実して生きる秘訣があり、一生などというといかにも長いように思われるでしょうが、実際には人間の一生といっても、結局一日一日の移りるきの外ないわけです。
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